エッジについて

ヨガは、一つのアーサナと呼ばれるポーズができれば、それで終わりというわけではありません。アーサナに入ってから初めて、内面へのヨガが始まるからです。本当にヨガが面白くなるのは、こうして体を介して自分の内面と出会えるからです。

クリパルヨガでは、アーサナをとってから、自分自身の可能性を最大に発揮できるところへ肉体を導いていきます。そのギリギリの瀬戸際のところを「エッジ」と呼びます。この記事は、クリパルヨガから派生した「フェニックス・ライジング・ヨガセラピー」の創始者であるマイケル・リーのエッジに関する体験談です。

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私が初めてヨガに興味を持ったのは、「21日間でヨガのすべてが分かる」というリチャード・ヒットルマン氏の著書を買った時です。いろいろなヨガのポーズをしているうちに、自分の体が信じられないほど硬く、痛みばかりだということが分かりました。私にはヨガは向いていないと思ったくらいです。肉体や呼吸を調えたり、意識を内面に集中させる方法も知識もまったくありませんでした。ですから、恍惚感どころか苦痛にもがいていただけです。それにもかかわらず、私は忠実に、独力で悶々とヨガの実践を続けました。

私は呼吸法を学び、それを練習し始めました。すると、激しい苦痛が起きても呼吸を使うことで体が緩み、何とか肉体が痛まない程度に少しずつ開かれていくようになってきました。そして、私は、ヨガの実践ばかりか、自分の人生を大きく変えるとても重要なことを発見したのです。それは「エッジ(瀬戸際)」という概念でした。

その頃の私は、すでに2年間のヨガ経歴があり、さらに多くのことを求めていました。ヨガの指導者を探すために、インドへ行きたい誘惑もありましたが、それに反して、北米のヨガのアシュラム巡りをすることにしました。そして、1983年の冬、マサチューセッツ西部のバークシャー・ヒルヘ私は足を踏み入れていました。そこのクリパルセンターに入所すると間もなく、滞在スタッフ全員に、毎日のヨガクラスが導入されました。私は、その実践のために毎朝5時のクラスにきちんと参加しようと強く決意をしました。その当時のクリパルヨガの実践では、ある種のヨガポーズを長時間保つやり方がよく行なわれていたのです。自分が最も苦しい体験をしたのは、そんな長時間のポーズを保っている最中のことです。

ある朝、ほんの短い時間保つポーズだったのですが、耐えられないほど不快な体験をしていました。グループの前でそのポーズをしていると、どうしてもよろめき倒れてしまうのです。何度、試してみても同じことでした。しっかり気持ちを新たに行なうのですが、自分の意志の力ではどうにもなりませんでした。そこで、常に現実主義者である私は、ちょっとした実験を行なうことにしました。それほど一生懸命に努力しないようにしてみたのです。軽く適度に耐えられる程度で止めて、楽にしておいたのです。ところが、そんなことをしているうちに、今度は罪悪感を感じ始めてしまいました。心の中で、「最善を尽くしていないではないか」という思いが浮かんで来るのです。私は安易な解決策をとっていただけです。非常に嫌な思いをしながら、再度試みましたが、罪悪感はフラストレーション、怒り、苦痛へと変わっていました。

その後、私は、また別のことで、ちょっとしたインスピレーションを抱いていました。試すことと試さないでいることは、何が違うのかという課題です。この新しい可能性に興奮して、私は次のポーズを行ないながら過大にも過小にもならない、ちょうどその中間の所を探してみたのです。初めは、なかなかそのポイントを見つけられませんでした。私には、つい一生懸命やり過ぎたり、逆に、後ろに引き下がってしまう傾向があり、その両方の誘惑に対し抵抗しなければならなかったからです。その後しばらく練習していると、さほど努力もせずにポーズを保持できる新しいエッジの場所が分かったばかりか、驚くような結果をもたらしていたのです。それは、瞑想中でしか体験したことのなかったような意識状態と類似した経験をしたことです。自分が自分自身に対する目撃者となるにしたがい、不快感を感じながらも、同時に、イメージや感覚や新しい気づきなどが沸き起きてくる空白なスペースに入り込んで行くような感覚があったのです。自分がポーズを行なう主体者ではなく、受け手となっていたのです。

数日のうちに、自分のヨガ実践はまったく新しい意味をもつようになっていました。いろいろなことがまさにエッジで起こり始めていたのです。深いレベルで自分自身に触れるにつれ、自分の人生で障害になっている事柄にも気づき始めました。ある日、同じようにヨガのエッジを体験している最中、自分の父親に対する恐怖心が浮かんできました。この私の父親に対する恐怖心は、私自身が、父親として、また、一人の人間としての自分に大きな障害になっていることが分かりました。父親としては、未経験で、不完全で、安定しない自分ですが、そのエッジの所で肉体や自分自身をリラックスさせていると、それでも愛される価値のある父親なのだという実感が起こり、喜びで涙が溢れてきました。

また、別の機会には、私のアイデンティティー(自己の存在を証明するもの)が仕事とどのくらい深く結びついているかということが分かりました。その日もヨガのエッジで保っていると、「何もしないでいること」に対する不快感が吹き出てきたのです。何もしないでいると、いつも何かをしてきた自分自身に対するアイデンティティーが崩されていく感じがするからです。しかし、その不快感を感じているうちに次第にそこから解放され、再び深い喜びを体験することができたのです。

まもなく、私は、ヨガでポーズをとっているときのエッジと、人生において体験するエッジとの間に驚くべき関係性があることを発見しました。私には、物事を早く処理して済せようとする癖や、結果やゴールにたどり着きたいという強い欲望があることが分かりました。また、時には、口実を作って怠ける傾向があることにも気づきました。その両極端を行き来しながら、自分の本当のエッジを発見し、それを確認できるまでは、どこにいたらいいのか自信がなく、どこにいても落ち着かない状態が続いていたのです。

私は、長年の仕事の中で、何か価値あるものを達成しようとしながら、その試みの果てにしばしば疲れきってしまい、その失意から逃れる必要に迫られていました。しかし、いったんエッジを受け入れると、どこかへ到達したいという自分の要求は消え去ってしまうのです。事実、私が何かを得るために必要なすべては、まさにここにあったのです。逆説的なのですが、自分のエッジを受け入れれば受け入れるほど、心に決意する通りのことが得られるようになりました。何かを達成しようというプロセスにおいて、もがくこともなく、自分の求める方向性をしっかりと選択するだけでよくなっていたのです。そこでは、一瞬一瞬、ただその体験と共に自分が存在するだけなのです。

また、成功とは、どこかでエッジというものに基づいているものなのだということを知りました。エッジのないところには成長はありません。学習もなければ変化もないのです。エッジから遠く後退した所では、退屈と衰退のみです。エッジから、あまりにも遠くへ行き過ぎれば、自滅を招きます。肉体と生命の両方の中で、エッジは常に動いています。それは、常に新しい未知の領域へ拡大しています。

肉体を通してエッジを探究したように、私は人生でのエッジを探究するようになりました。これは不快感、能力のなさ、恐れ、そして、人生の醜さとともに、美しさといったものに正面から向き合うことであり、そのエッジとともに戯れながらも、それを超え成長していくことを意味するものでした。

ヨガの実践およびそれとともに培われ集中した気づきによって、私は、エッジに関する多くのことを教わりました。人生の中にそれを応用することは、実際、簡単なことでした。いったん、肉体を通して気づきが起きれば、それはすでにこの人生で起き始めていることだからです。それはたんなる概念ではありません。その体験というのは、ある種異なった存在の仕方なのです。そこでの学びはほとんど自発的なものです。エッジのところで促される気づきと、そこから生じてきた人生の変化というのは、自分が読み、聞き、あるいは考えて行なってきたことより、はるかに実現しやすいものでした。

エッジを探るということは、まず、「今」に存在するということが要求されます。私の心がどこか他にある場合、エッジを見つけることはできません。それは、一瞬一瞬に起きていることに進んで向き合い、そこに存在するということを意味します。さらに、それは、状況を見極めそれに適応していくための長く継続した保持が必要になります。そして、そこで気づくものすべてを受けとめなくてはなりません。気づいても、それを否認したり自責の念にかられるようでは、どうにもなりません。また、エッジがきつい時は、どこで身を引くかを知ることは、さらに深く進むことと同様に重要なことです。それが何であれ、起きていることをすべて受け入れたときに初めて、私たちは、次に進むべき所や、それとどのように共存すべきかを選択できるようになるのです。

エッジとともにいるということは、それがヨガのポーズであれ、人生のことであれ、私たちをさらに深い体験へ導いていく非常に微妙なチューニングを続けるということなのです。このようなエッジへのアプローチは、ヨガ実践者の自己変革のプロセスを促進するものと私は信じています。

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